以下、近畿化学協会会誌「近畿化学工業界」2016年3月号
「宇宙の果てを夢見て」(市川隆)より引用


天文学は何の役に立つの

 「大学で何を教えておられるのですか」と問われ、「天文学です」と答えると、「ロマンがあって良いですね」と皆さん言われる。天文学と言うと、一般の人には、毎日望遠鏡をのぞいて星空を眺めている「おたく」「ロマンティスト」と思われているのかもしれない。もちろん実際に研究している様子を紹介すると、天文研究はそんなイメージとはだいぶかけ離れていることを理解してもらえる。それでも「天文学は何の役に立つの」という否定的な質問は良く聞く。確かに単なる「おたく」では社会の役には立たない。また果ての宇宙を知ったからと言って明日の生活が便利になるわけでもない。
 宇宙への興味は尽きず、天文学の講演会はどこも盛況である。話題は事欠かない。最近、全国の高校生を対象とした公開講座があり、約200余名の高校生の前で最先端の天文学の成果を交えて南極での研究プロジェクトを紹介した。立ち見の参加者もいて盛況であった。講演の後に個別に質問に答えるコーナーがあり、たくさんの高校生から質問を受けた。その中で、「天文学の研究者になりたのだが、友人から、天文学は社会の何の役に立つのだと問われ、答えが見つからない。先生はどう思うか」との質問を受けた。
 「天文学が何の役に立つか」という質問に対しては私なりにその答を持っている。長い間、天文学の研究や普及活動に関わってきて、出前授業や公開講座で多くの方に最新の天文学、自分の行っている研究の面白さを伝えてきた。宇宙に対する理解を深め、好奇心を満たして頂き、皆さんからおもしろかったと言ってもらえるだけでも、十分に社会の役に立っていると思っている。しかし将来の大天文学者になるかもしれないこの高校生の将来を閉ざしてはならない。その高校生に私の考えをしばし聞いてもらった。

「ふしぎの解明」は豊かな社会の原点

 「ふしぎ」と思う心は他の動物にもあるかもしれない。しかし「ふしぎを解明したい」という科学的思考は人間のみが持つ。なぜ天文学の研究を行うか。それは人間だからである。誰しも、星空を眺めれば、悠久の世界に思いをはせ、宇宙の果てを夢見る。太古の昔から、それを不思議に思い、科学的手法を編み出してそれを解明してきた。その結果、人間の意識も変わり、現在の豊かな社会が作られてきた。かつて、地球は宇宙の中心にあると考え、すべてが地球の周りを回っている、地球は特別の存在であると考えられていた時代があった。人類の長い歴史を考えると、つい最近のことだ。しかし今では宇宙に始まりがあって、私たちの身体を形づくる水素以外の大半の元素は星の中で合成され、何億年もの長い年月をかけて地球となり、私たち生命が生まれたことがわかっている。
 ガリレオは当時おもちゃだった小さな望遠鏡を天体に向けて、月のクレーターを発見した。月や惑星の動きから地動説を唱え、400年後の今では、月の満ち欠けの理屈は小学校で最初に学ぶ天文学である。太陽の周りを地球が回っているのは小学生でも知っている。しかし、ガリレオの時代、月の観察は最先端の科学であり、地動説は「役に立つ」どころか、「危険な学問」として抹殺された。ニュートンはコペルニクス、ケプラーなどの先代の天文研究者が残した膨大な惑星の動きを整理することで、万有引力の法則を完成した。この万有引力法則の理解なくして、気象衛星、宇宙ステーションなど、私たちの生活を支える様々な人工衛星は存在しない。アインシュタインは引力や光の理解に新しい概念を持ち込み、一般相対性理論を完成した。それは宇宙の構造と未来を予言する。その新しい理論は重力によって時間の遅れが生ずることを予言し、今ではGPS衛星の時刻の補正に必須のものとなっている。

役に立てるのは後生の人の知恵

 ガリレオ、ニュートン、アインシュタインはいずれも天文学に関わった偉大な研究者である。彼らは社会の役に立てることを目標に大発見をしたのだろうか。そうではない。単純に好奇心のままに、純粋な気持ちで自然と向き合っただけである。数百年前には最先端の科学成果も当時は非常識であった。しかし現在ではそれが教科書に載り、私たちの常識となっている。このように人間の好奇心と科学的解明の欲求が人類を豊にしてきたといえる。偉人の発見を役に立つものにしたのは後世の人たちの知恵である。そんな偉大な研究者の周囲には「無駄となった研究」は数知れずあり、名も残っていない多数の研究者もいる。しかし一見「無駄」に見える研究の中に絡まっている手がかりをひも解いた時、大発見が生まれる。決して、天才だけが科学の進歩に貢献しているわけではない。
 もし、「役に立つ」「役に立たない」で予め、研究の方法や対象を選んだら大発見は生まれないだろう。もちろん、「役に立つ」研究は重要である。しかし「役に立つ」だけを求めると、役に立たないとわかった時点で研究はストップする。あと一歩で大発見があったかもしれない。「役にたつ」の判断は誰がするのか。実際、ノーベル賞の研究は大半が数十年も前に得られた科学的成果であり、しかも、当時、まだ社会の役に立つかどうかわからなかった。役に立つことがわかるまで数十年、あるいは数百年かかるかもしれない。役に立つから解明するのではない。解明したから役に立つのだ。役に立つかどうかは後世の人の知恵に任せれば良い。
 質問をした高校生は「わかりました。私も先生のように立派な天文学者になりたいと思います」と言って帰って行った。私が立派かどうかわからないが…

自由な発想を持つ若い世代

 最近、国立大学では「国立大学改革プラン」の国策の下、産業にすぐ役立つ理科系の研究と教育を中心にして、教育人文科学系の学部を縮小する方針が文科省から要請されている。さらに大学を3つに分類して、最先端の研究は一部の学校に任せるという。大学の定義やあり方、使命が大きな転換期を迎えている。すでに人文系を縮小する「改革」を進めている国立大学は多数に上る。大学は自由な、時には無駄となるかもしれない研究が許される唯一の場所であり、誰からも干渉されずに自由な発想に基づく研究が、税金によって社会から託されている場所と言える。大学で学ぶ学生はそんな環境で、試行錯誤し、柔軟な思考回路を形成する。失敗がさらなるアイデアを生む。そこには無駄もたくさんあるだろう。発想豊かな心は教養課程の授業で育まれるかもしれない。人文科学と接することで社会と科学のかかわりを勉強し、「科学する心」がもっと豊になるだろう。
 今の大学生たちが、卒業後50年、100年先の国の形を作っていく。私たち大学人が「役に立つ」研究や教育だけに学生を縛ったらどうなるだろう。自由な発想を持つ研究者・教育者は育たず、将来の国難にも対応できなくなるかもしれない。社会が求める「すぐに役に立つ人材」は、同時に「すぐに役に立たなくなる」可能性も持ち合わせる。一方、自由な発想に基づく高等教育を受けた世代は柔軟だ。

100年後の教科書

 人類の共通の文化である自然科学、特に基礎科学は、広く社会に受け入れられ、社会を豊にし、生活にとけ込むまでには長い年月がかかる。科学は単に私たちが生きているこの時代だけのものではない。今、私たちは宇宙の誕生や生命誕生の秘密を解明すべく、日々研究を続けているが、やがて100年後、200年後、私が今、取り組んでいる難しい研究課題でさえ、その秘密が小学校の教科書で解説される時代がくる。自然に対する意識を変え、常識は現在とは想像もつかないものとなっているだろう。私たち科学者は今からその時の教科書を準備しているといえる。